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● インドの政治



■ インド政治の基本


 インドの政治の特徴は、独立以来ほぼ一貫して議会制民主主義を貫いてきたことである。


 さらに独立以来インドにおける国家運営のベースは、1)独立の維持、2)国内全土の統合、3)開発による経済発展である。


 このうち国内全土の統合という点では、広い国土をまとめるためにも、総人口の8割を占めるヒンドゥー教を国家の理念とはしないという、インド憲法にも定めた政教分離主義があげられる。


 しかし80年代末から、ヒンドゥー・ナショナリズムを掲げるBJPが勢力を伸ばし、インド国内のイスラム教徒を刺激し、ムスリム多住地域であるジャム・カシミール州の独立運動をおこす契機ともなった。


 また開発による経済の発展という点では、独立後のインドの政治を主導してきた会議派をはじめとする多くの政党が、経済的不平等の是正を主とした「社会主義」を公約に掲げたことをおさえなくてはならない。

 このことにより、規制的、閉鎖的な経済運営が、経済の発展を阻害することとなってしまったのである。

 またアメリカのベトナム戦争批判の展開が、アメリカの対印経済援助の停止となり、それがソ連への傾斜をさらに強めることとなり、結果的に経済の停滞が進んでしまった。


 これらによる経済の停滞が1991年の債務不履行寸前の状態にまで至ることとなり、これがラオ政権による「新経済政策」、すなわちドラスティックな経済自由化政策へとつながり、その後現在の発展へとつながるのである。



2 ■ 会議派の特徴と変遷


 独立運動組織の多くは、相互に矛盾するグループの利害を調整していく過程で、折衷的な性格を帯びるようになる。

 会議派もこの折衷的な性格により、ほとんどすべての階級、階層、集団の利益を代表することを装うことで、全インド的に支持を集めることに成功してきた。

 しかし会議派は基本的にはヒンドゥー宗派的保守政党であるが、左翼支持層の関心も引き寄せる戦略をとってきた。

 それが、共産政党の会議派支援という現象を生んできた。

 もっとも、インドにおいては会議派ばかりでなく各政党とも左翼寄りの姿勢を示す事を好んできた。

 それが第42次憲法改正(1976)によって、憲法前文に「社会主義」という語句が挿入されるに及んだ。

 さらにインドの右翼政党であるインド人民党(BJP)ですら、「マハトマ・ガンジ式社会主義」を信奉すると主張している。


 独立闘争の栄光を背景とする会議派の支配も、1962年の中印国境紛争での大敗北後は弱体化し、以降長期低落傾向を示した。この理由として、以下の点があげられる。

 1) 経済面でのはかばかしい成果をあげられなかった。

 2)農業分野での土地改革が不発で、土地の再配分が実現できなかった。

 3)公営企業主導の計画経済の失敗。

 4)許認可をめぐる汚職の頻発


 独立後もインド政治を支配してきた国民会議派であるが、上記理由以外にも、派内の権力抗争による分裂や、度重なる失敗を非常事態宣言で乗り切る強権に、民衆から「NO」を突きつけられ、1977年3月国民会議
派は初めて政権の座から滑り落ちた。

 その後いったん政権に返り咲いたが、84年インディラ、91年ラジブの暗殺により、ネルー家の首相継承は終わった。



3 ■ 新しい政治勢力の台頭


 今回は北部インドの地域政党から、後に会議派を破るところまで成長したジャナタ党についてです。

 インドの新政党が全国的に政権を目指すためには、まず北部インドのヒンディー・ベルト(ヒンディー語地帯)において一定の勢力を獲得することが必要である。

 ヒンディー・ベルトは人口、面積とも全体の4割を占め、中でも中心的な位置を占めるのがウッタル・プラディッシュ州(UP州)である。


 UP州の主要な産業は農業であるが、会議派の支持基盤は、大地主、ムスリム、及び指定カースト(不可触民)などであり、後進(下層)カーストを中心とする中農と呼ばれる人々は党内では劣勢であった。


 そのため、彼らの意見を吸収し、州政治に反映させるためのチャンネルを必要とし、そこに後進カーストで農業重視の政策を掲げるチャラン・シンが登場した。

 チャラン・シンは他の16名とともに会議派を離党し、統一議会党を経て、1967年インド革命党(BKD)を結成するに至った。


 インド革命党はその後1974年スワタントラ党などと合併し、インド人民党(BLD)を結成し、全国政党へ脱皮した。

 さらに1977年他の主要政党と合併してジャナタ党を結成し、この年の第六回総選挙で、国民会議派に代わって政権の座についた。


 しかし中農からの指示を受けて政権をとったジャナタ党も、今度はその政権を保持するために広範な支持を得ようと理念や政策が一般化・現実化し、会議派との差異がなくなり、かえって自己の支持基盤を弱める
こととなっていった。

 そしてこのジャナタ党政権は、三年ももたずに1979年に分裂した。


 その後はかつてのガリバー政党だった会議派も単独で政権を維持する勢いはなく、多党化、連立政権の時代に入った。

 現バジパイ政権 (NDA:国民民主連合)も、多数の地方政党が参加した連立政権である。



4 ■ インドの外交


 インド外交の基本的な外交方針は、軍事同盟への不参加、自主外交という非同盟政策である。

 これは、反植民地主義、反帝国主義を掲げた独立運動の成功により主権を獲得したインドとしては、その主権を擁護するために他国からの干渉や介入を排除するということを第一優先としてきたことによる。


 インドが排除すべき域外勢力は、当初はアメリカであり、その後中国も含まれた。

 そのためインドは、米中の影響力をそぐためにソ連に接近した。

 また経済面では、域外勢力の排除指向が、アメリカや西側諸国に対する閉鎖的・排他的な経済開発政策となった。


 しかしながらそれらの外交政策は、80年代末のソ連の崩壊と、それに伴いアメリカの対アフガン対策の必要性が薄れたことによる、対パキスタン援助政策を見直したことが、インドとアメリカの間の急速な関係改善へと結びついた。

 これが経済分野にも波及し、アメリカの対印投資の急拡大となった。


 さらにインドはルック・イーストすなわちアジアへの接近を強めていった。その主要な対象は、ASEAN諸国と日本である。


 日本とインドとの関係はこのインドの姿勢と呼応し、当時の橋本通産相や、その後の森総理の訪印につながり、それが対印投資の増大、ODAの増加となって現われた。

 さらに人材交流も、IT分野を中心にして進んできている。 



5 ■ 印米関係


 インドにとって最も影響の大きいのは、やはり対米関係である。

 しかしインドの対米関係は、パキスタンとアメリカとの関係に大きく影響されてしまうものである。


 もともとパ米関係は、アメリカの人権を基軸とする外交政策により、それほど良いものではなかった。

 しかし1979年のイラン革命とソ連によるアフガン侵攻により、この状況は一変した。


 とくにブレジネフのアフガン侵攻により、カーター大統領はパキスタンを戦略国家と位置づけ多額の経済・軍事援助を行った。

 インドは、アメリカの対パ援助が、結局は対印軍事増強に振り向けられているとして、アメリカを非難し、それが印米の関係改善を妨げる大きな要因であった。


 しかし、1988年のアフガニスタン和平協定の調印とソ連の崩壊がアメリカの対パ政策を大きく転換させた。
1990年ブッシュ政権は、パキスタンが核弾頭を製作しているとの理由で対パ援助を停止した。アフガン戦争の終結は、アメリカにとってパキスタンの地政学的な意味が消滅した事を意味した。

これを機に、今度はアメリカのインドシフトが始まった。


 インドもこれに対応し、また自国の経済の行き詰まりもあって、1992年ラオ政権での新産業政策の発表に及び、ITを主にした印米関係が深まることとなった。




6 ■ カシミール問題


 カシミール問題は印パの問題であるが、ここではインド側の視点から考察していきます。


 カシミール問題は、当初カシミール帰属をめぐる印パの国際紛争を意味していたが、その後ジャム・カシミール州(JK州)で発生している、インドからの分離独立運動も加わり、この二つの問題をまとめてカシミー
ル問題と言っている。


 日本の本州とほぼ同じ広さを持つカシミールは、印パ両国が1947年に分離独立した際、カシミール藩王国は最終的にインドへの加入を選択した。

 しかし、ムスリム多住地域を基礎にして国家を建設しようとしていたパキスタンはこの選択を認めず、1948年に第一次印パ戦争が勃発した。

 翌1949年1月、前年の国連決議に基づいて停戦が実現し、1949年7月に策定された停戦ラインにより、カシミールは分割領有された。


 その後1965年に始まった第二次印パ戦争では、戦時中のパキスタンの防衛体制が西パキスタンに偏重し、東パキスタンがインドの攻撃にさらされたことに強い不満が高まり、後のバングラディッシュ分離独立の遠因となった。


 1972年に始まった第三次印パ戦争については、過去の戦争が不明確であったのと異なり、戦争を仕掛けたのがパキスタンだったのは明らかである。

 またこの戦争に圧勝したインドは、東パキスタンの独立支援という第一義的な目的を達成することができた。


 第三次戦争は、南アジアにおけるインドの優位性を確立するものとなった。

 インドはこの第三次戦争の勝利を契機として、1974年の地下核実験をはじめ、南アジアにおける大国の地位を明確に指向していくこととなった。


 一方パキスタンにとっては、1979年に起こったソ連によるアフガニスタンへの軍事介入が救いとなった。

 アメリカがパキスタンを通じて、アフガンのムジャヘディンを支援する政策を採ったため、アメリカの対パ軍事・経済援助は急増した。

 パキスタンは、アメリカのてこ入れを利用して、インドに対するバランスを回復させることができたのである。


 他方アメリカは、湾岸戦争に際してインドがその領内で米軍機の空中給油を認めたことに報いる意味で、IMFによる10億ドルの対印緊急援助に賛成した。

 アメリカは、インドに対しても友好関係の維持を考えているのである。


 現在アメリカの南アジアに対する最大の関心は戦争の防止、及び核拡散防止であり、いずれもカシミール問題にかかわりを持っている。

 南アジアにおける核開発競争は、結局のところカシミールをめぐる印パ戦争勃発の可能性を想定したものである。

 そのためアメリカとしては、カシミール問題が現状維持の状態で決着することが、核拡散防止という安全保障上の点からも最も望ましいことになる。

 印パ両国にとって、またアメリカの指導する国際社会の利害から見ても、カシミール問題は、いずれ現状維持の方向で決着が図られることになるであろう。