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● インドの歴史1(インダス文明〜マウリヤ朝)



■ インダス文明


 インドの歴史の原点は、BC2300年頃からインド亜大陸の北西部地方、つまり現パキスタンのインダス川流域に栄えたインダス文明である。

 それは北部のパンジャーブ地方の遺跡ハラッパーにちなんで、ハラッパー文明とも呼ばれている。
   
 この文明の担い手は、西アジア(メソポタミア)から移住してきたドラヴィダ人である。またこの文明の代表的な都市は、ハラッパーとインダス川下流域のモエンジョ・ダロである。
   
 この都市は碁盤目状に整備された道路を持つ市街地がその文明の大きな特徴であり、モエンジョ・ダロにある重要な公共の建造物は大浴場であった。

 これは宗教的な沐浴(もくよく)のために使用されたとみられる。
   
 この時の総人口は4万人を超えると推定され、その多くは鍬と水牛で耕作する農業従事者であった。

 人々の主食は小麦や大麦で、肉や魚も食していた。
   
 インダス文明は、二大都市の崩壊を含め、BC1800年頃から衰退した。

 これはこの文明が灌漑水路を持たなかったため、農業が自然災害の影響を受けたことと、洪水などにより港でもあった都市がほろび、これらの住民への持続的な食料の供給ができなくなったことなどによる。



■ アーリヤ人の到来 


  アーリヤ人はもともと東ヨーロッパのカスピ海沿岸に居住していたが、前2000年頃から中央アジアを通って、イラン東北部、アフガニスタンを経由して波状的にインドへ到来し始めた。

 彼らは遊牧民であったが、インダス川とガンジス川の上流域、つまり肥沃なパンジャーブ地方に進出すると、牧畜や農業で定住するようになった。

 この地域の先住民は高度な文明(インダス文明)をもっていたが、アーリヤ人が先住民を征服できたのは、遊牧民が常時保持していた二輪戦車を駆使した機動性と、青銅器のすぐれた武器によるものであった。

 アーリヤ人の生活にとって最も重要な家畜は牛であった。

 農業生産物としては大麦で、金属類としては青銅や銅が用いられた。

 アーリヤ人の家族は父系性であり、家長が大きな権限を持っていた。

 また、女性の地位は低かった。

 前1000年から前800年頃になると豊富で良質な鉄の利用とともに、それまでの大麦、小麦に加えて稲作を行うようになった。

 またこの頃になると王権が確立され、部族国家が形成された。

 そして部族出の王侯は領土の拡張を目指して、常に戦争を仕掛けることになった。



■ バラモン教の成立


 インド文明はヴェーダから始まる。

 イランに入ってゾロアスター教を生んだアーリヤ人とともに、宗教的才能に恵まれたインダス川上流に入ったアーリヤ人は、ヴェーダを生み、伝え、後に文字として記された。

 ヴェーダは聖仙が霊感によって伝えたものとされ、人々の守るべき宗教的義務と生活規範(ダルマ)は、ヴェーダを根源としている。

 前800年頃に、このヴェーダを基礎とするバラモン教が成立した。

 バラモン教は宗教的には、雷の神(インドラ)、火の神(アグニ)、太陽の神(スーりヤ)などの自然神であるヴェーダ諸神を対象とするもので、神への崇拝は自然に対する崇拝であると理解されている。

 バラモン教はヴェーダを絶対視し、祭式を至上のものとし、さらに司祭階級であるバラモンの特権的地位を強調した。

 そしてバラモンがヴァルナ(身分による4集団)制度を定めた。

 つまり当時の社会はバラモン(祭司者)を頂点にして、クシャトリヤ(王侯、軍人)、ヴァイシャ(農民、後に商人が主体)とシュードラ(隷属民)の四つに区分した。

 この制度を唯一の基準にして、人々の身分関係を固定化し、維持を図った。

 移住民であるアーリヤ人からなる上位三身分は特権化され、逆に被征服民である先住民からなるシュードラは、一生上位三身分への奉仕と従属を強制された。



■ 仏教、ジャイナ教の誕生


 両宗教が生まれてきたBC500年頃の北東部のインドでは、定住農業するアーリヤ人の間で家畜利用が進んで行った。

 この頃鉄製の鍬(すき)に依存する農業の発展のため、家畜としての牛を飼育し、その牛を活用する必要があった。

 ところがバラモン教の基盤である「ヴェーダ」の儀式で牛が殺され、牛の数が確実に減少して行った。

 こうした行為が農業の発展を阻害し、社会危機を生み出す事となった。

 さらにこの時代は多数の都市が興り、貨幣が流通し、交易活動を活発化させ、当然のことながら第三身分のヴァイシャの重要性が高まった。

 ヴァイシャは第三身分とされていたから、その社会的な地位の向上を新たな宗教に求めたとしても不思議ではなかった。

 そのような時代背景で、仏教とジャイナ教が誕生した。

 仏教の開祖はゴータマ・シッダールタ(前566〜前486)であって、彼は悟りを開いた後、ブッダ(仏陀)となった。

 一方、ジャイナ教はヴァルダマーナ・マハーヴィーラ(前549〜477)によって開かれた。

 共通点として二人とも出身はバラモンでなくクシャトリアであり、出生地や教化の対象地もともに北東部インドのガンジス川中流域であった。

 このあたりの地域は正統なバラモンからは劣等な地域とされており、ヴェーダの儀式があまり施行されてない地方であった。



■ ブッダと仏教の広がり


 ゴータマ・シッダールタは北インドのヒマラヤ山脈に住むクシャトリヤの家系に生まれた。

 ゴータマとは最も良き牛、シッダールタは大願を成就せし者の意である。

 ゴータマは16歳でヤショーダラーと結婚し、一男児ラーフラをもうけたが、人生の意義について深く悩みを感じていた。

 ある時、苦しむ老人、寝たきりの病人、死人、自身の静穏にひたる修行者を見て、父母妻子を捨てて出家した。

 29歳の時であった。

 その後各地で修行を重ね、35歳の時ブッダガヤーの菩提樹の下で「悟り」を開いた。

 つまり「4つの尊い真理(四諦)」をつかんだ。

  1)苦についての真理
  2)苦の原因についての真理
  3)苦の滅却についての真理
  4)苦の滅却のための8つの道(八正道)についての真理である。

 悟りを開いて以後彼はブッダ(仏陀)、つまり悟りし者と呼ばれた。

 その後サールナートで初の説法を試みた。

 彼はきわめて強靭な人で、一日に20kmから30kmは踏破した。

 80歳で北インドのクシナガラで他界した。

 ブッダはバラモンの標準語であるサンスクリット語ではなく、民衆語(プラークリット語)の一つであるパーリ語で布教したため、人々は容易に彼の教えを理解できた。

 民衆語の利用は後に述べるジャイナ教でも確認される両者に共通した特徴である。

 ブッダはその布教過程でサンガ(教団)を組織したが、その門戸はヴァルナや性別に関わらずすべての人間に開かれていた。

 出家者にはサンガの禁欲や耐乏といったダルマ(法道)の遵守が求められた。

サンガを基盤とした仏教は急速な広がりをみせた。



■ ブッダの説いた仏教の教え


 ブッダにとっての根本的問題は、いったい自我とは何なのか、という問いであった。

 ブッダは自己の根本を「無明(むみょう;正しい知の欠如)」と規定し、その働きから外界を認識し、思考していき、さらに性の衝動や所有への渇望が生まれ、その後にその享受の楽しみと苦しみを知った人間を待つもの、すなわち老死に至る、とした。

 これは言い換えると、世の中は「苦という真実」とその原因からなるとした。

 つまり老死から逆にさかのぼってその原因をなくしていくと、すなわち苦からの解放は最初の無明の止滅であり、これは悟りにほかならない。

 この悟りこそ、人々を輪廻から解放する、とした。

 したがって、悟りに達するには無明の止滅、すなわち正しい知の欠如を止滅する、とは正しい知を悟ることである。

 そのためにブッダは八正道を説いた。

 その内容は、(1)正見(正しい見解)、(2)正思惟(正しい思索)、(3)正語(正しい言葉)、(4)正業(正しい行為)、(5)正命(正しい生活)、(6)正精進(正しい努力)、(7)正念(正しい思念)、(8)正定(正しい瞑想)である。



■ ブッダ後の仏教


 仏教では教団生活では特殊な戒めが課されるが、在家の信者に求められたのは三帰、五戒の遵守である。

 三帰では、ブッダ(仏)、法(ダルマ)、僧団(サンガ)を等しく敬う。

 また五戒とは、命あるものを殺さない、盗まない、姦淫しない、嘘をつかない、酒を飲まないの五つを言う。

 これがただちに八正道への端緒となる。

 ブッダの友人だったビンビサーラ王の12代目の後継者、マウリヤ王朝のアショカ王(前268-前232)もブッダの没後200年して仏教に帰依した。

 アショカ王はインド亜大陸全土に帝国の版図を広げ、その隅々にまで仏教を広めようとした。

 このころから仏教は、ブッダの教えの解釈と、新たな状況へのその適用をめぐって異なる見解を持ついくつかのグループに分裂していった。

 伝統仏教は教義の基本原則に忠実であり続け、今日も存続するテーラヴァーダ派(上座部)である。

 上座部は解脱を目指した出家の僧侶のための教えで、僧侶は僧院などで200条を超える厳しい戒律を守って修行した。

 このため、在家信徒に解脱の道が閉ざされただけでなく、僧侶にとっても解脱はむずかしいものとなった。

 これに対して1世紀初頭、一般の武士や商人によって支えられた新領域の仏教が現われ、菩薩あるいは未来仏信仰といわれた。
 この新派は旧来の仏教を小乗仏教(ヒーナヤーナ;小さな乗り物)と決め付け、自らは大乗仏教(マハーナーヤ;大きな乗り物)と称した。

 大乗仏教は万人に仏門は開かれているとの立場から、すべての生類の解脱を目指し、菩提心をおこした人がすべて菩薩として完全な境地に達することができるという教えで、阿弥陀仏の信仰も生まれ、「般若経」「法華経」などの大乗経典を著し、北西インドから東アジア世界に勢力を確立していった。

 一方小乗仏教は、西インドからスリランカや東南アジアに根をおろしていった。



■ ジャイナ教の誕生


 ジャイナ教の開祖はヴァルダマーナ・マハーヴィーラは、前444年頃ビハール地方のクシャトリアの家系に生まれた。

 ヴァルダマーナは「栄える者」と言う意味で、マハーヴィーラは「偉大な勇者」と言う意味である。

 その誕生地はブッダと同じく北インドであった。

 30歳で出家し、十数年間の苦行の後、悟りを得てジナ(自己と欲望の征服者)となった。

 そして72歳で苦行の生涯を終えた。

 また、その説教は民衆語のプラークリット語でなされた。

 ジャイナ教の教えは仏教のそれと近く、そのジナは生きることを「苦」と考え、それから脱却する道を求めた。

 そのためには自己を徹底した苦行の道に投じ、霊魂の浄化を求めた。

 この浄化された霊魂はサンサーラ、つまり輪廻転生に落ち込む事はない。

 またジナは信者に対し、(1)不殺生、(2)真実語、(3)不盗、(4)不淫、(5)無所有という五大戒律の厳守を求めた。

 この五戒のうちで不殺生が特に重視され、微細な虫類も殺すことは許されないので、信徒は農耕にたずさわらず、商業に従事するものが多かった。

 またジャイナ修行者は無所有ということでも徹底し、一糸も身にまとわないで裸形で修行していた。

 ヴァルダマーラの死後1世紀頃、一枚の衣をまとうことを認めるか否かをめぐって、ジャイナ教は裸行派(シヴェーターンバラ派)と白衣派(びゃくえは;ディガンバラ派)とに分れた。

 前者は厳格派と呼ばれ、厳しい戒律を自らに課して南インドで広がり、後者は寛容派とよばれて多くの支持層を北西インドを中心に築いた。

 この後に示すが仏教は12世紀までにはインドでは完全に消滅するが、禁欲的なジャイナ教は信者層を庶民(ヴァイシャ)の間に築いていき、今日までインド内で存続、発展させることができた。



■ マウリヤ朝の統一


 前6世紀から続くマガダ国の発展を受け継ぎ、インド統一を実現したのがマウリヤ朝である。

 始祖チャンドラグプタが王位につき、ガンジス川流域から西北インド、アフガニスタンまで領土を広げた。

 ただし、マウリヤ朝の政治、経済の中心はガンジス川流域であった、

 マウリヤ朝を支えたのは、軍隊と官吏である。マウリヤ朝はマガダ国の行政制度を受け継ぎながら、インド史ではじめて官僚制度を整備したのである。

 この当時の主食は米であり、ガンジス川中流域の感慨事業に力を注いだ。

 このマウリヤ朝の始祖チャンドラグプタの孫が、有名なアショカ王である。

 アショカ王の政治理念とその実践は、インド史の中でも独特できわだったものである。

 アショカ王は戦争の悲惨さを反省し、武力による征服をやめて、ダルマ(法)の実現を目指した。

 王の碑文によれば、ダルマは正しい心を持つことであり、心を清浄にして平静を保ち、生物を殺さず、争いをおこさず、寡欲にして節制し、あわれみの心を持つことである。

 アショカ王は仏教の擁護者であり、その政治理念は主として仏教を背景としている。

 この時代、仏教は諸地方に広まり、ジャイナ教より優勢となった。

 アショカのあと、マウリヤ朝は急速に衰え、前185年ごろ、軍司令官のプッシャミトラによって滅ぼされた。
→ グプタ朝〜ポルトガルのインド進出