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トップインド関連情報>インドの歴史1(インダス文明〜マウリヤ朝)


● インドの歴史2(グプタ朝〜ポルトガルのインド進出)



10 ■ グプタ朝の北インド統一


 マウリヤ朝崩壊の後、約5世紀にわたる北インドの分裂を統一して320年から約200年間統治したのは、グプタ朝である。

 グプタ朝においてはバラモンの宗教と文化が尊重され、バラモンの使うサンスクリット語を公用語とした。

 グプタ朝の最盛期は4世紀の中ごろまでで、その後異民族の侵入や地方勢力の独立などによって衰退し、6世紀に入って滅亡した。

 この時期の経済は土地所有農民が主体であり、農村では貨幣経済は普及せず、現物経済が中心であった。

 一方都市では組合(ナイガマ)が多数設立され、商工業者は1)交易商人、2)高利貸し、3)手工業者の三種があった。

 またこの時代(4〜6世紀)はヒンドゥー文化の爛熟した花が咲き誇った時代であって、その精神をみごとに表現したのがカーリーダーサのサンスクリット文学作品である。

 この点から、今日のインド人学者はこの時代をインド文化の「黄金時代」と賞賛している。

 グプタ時代にはサンスクリット文学だけでなく、二大叙事詩や古典哲学の経典も完成し、ヒンドゥー教は人々の間に浸透しながら、それまでに蓄えた力を一気に発揮した。

 仏教では、大乗教学、マトゥラーの仏像、アジャンターの絵画が際立っているが、ヒンドゥー教の隆盛によって、仏教はグプタ以前のクシャ
ーン時代の勢いを失っていった。



11 ■ グプタ後の小国の分立


 グプタ朝の衰退とともに北インドには多くの領主国家が誕生した。

 8世紀中頃には、ガンジス川中流域、その下流域のベンガルと、デカンの三つの地域で強大な王朝が現れ、それから約200年間 三王朝が覇権をめぐって抗争した。

 この三王朝の中で最初に強大な勢力となったのは、ベンガルの「弱肉強食の混乱」を収めて750年に建てたパーラ朝である。

 これに対して八世紀後半にガンジス川中流域を領土とし、カナウジを都としたプラティハーラ朝が興った。

 プラティハーラ朝の最盛期は九世紀中頃で、北インドの西半分を領土とした。

 しかし、十世紀後半にはこの王朝は衰退し、同じ頃パーラ朝も滅びた。

 この時南インドでは、9〜13世紀にかけてチョーラ朝が広大な支配権を確立していたが、これが滅ぶと、ここでも小国の分立を招いた。

 これら小国の分立が、インド全域での地域主義の発展をもたらした。

 反面で、小国家の分立した状態は、外部勢力のインドへの侵入を容易にする結果を招いた。

 また、この時代は「ラージプート時代」と呼ばれた。

 ラージプートとは、この時代の多くの王朝がサンスクリット語で王子を意味する、ラージャプトラがなまったものである。

 八世紀以降の諸王朝は、伝説上の太古の王の後裔(こうえい)としてクシャトリヤと称した。

 太古の王はプラーナ文献に記されており、諸王朝は宮廷のバラモンに命じて祖先の系譜を創作させ、それによって支配の正当性を示した。

 これはこの時代に顕著になったことであり、この時代にそれまでの四つのヴァルナをまとめて成立したカースト制度と符合して、出目を誇り世襲を尊重する風潮と適合していた。



12 ■ カースト制の成立


 カーストはインド社会の特徴として、あまりにも有名である。

 この言葉は、16世紀にバスコ・ダ・ガマの一行がインドに上陸した時に目にしたこの社会身分制度を、ポルトガル語で「カスタ(血統、階級
の意味)」と呼んだ事に由来している。

 カースト制度は、西暦始め頃に著された「マヌ法典」を基礎にしている。

 「マヌ法典」はバラモンの権威と特権を明確化するために定められたヒンドゥー法の基礎となった法体系である。

 ヒンドゥー教では、行為によってさまざまな姿に生まれ変わるという輪廻の思想がある。

 これは、人がそれぞれのカーストに生まれてきたのは前世の因縁であり、現在のカーストの職業に専念し、来世の生まれ変わりに幸福を期待するものである。

 この時期村落社会の中核を占めたのは、土地所有階級の農民である。

 大工や陶工といった職人は土地をほとんど所有せず、彼らがバラモンや農民の土地を小作していた。

 こうして、土地所有農民や農業生産と村落生活のため仕事をおこなった各種の職人の間に分業体制がはっきりとつくられ、職業がきびしく世襲化されるようになるとともに、同じ職業に従事する人々がそれぞれのカーストを形成していった。

 このようにして、現代の基礎となったカースト制度が成立していったのである。

 政治的にはカースト制は為政者にとってはきわめて好都合で、ヒンドゥー王国の支配階級はカースト制を温存し、その上に君臨してきた。


 カーストを構成する階層として、大きくバラモン(祭祀)、クシャトリア(王侯、武士)、ヴァイシャ(商、農民)、シュードラ(被征服民、奴隷)という区分である。

 この区分は、職業を生まれた時から世襲化するもので、インドのヒンドゥー社会では非常に大きい影響力を持って、人々を束縛し、社会の掟の基礎をなしてきた。

 また、上記四階層に含まれない階層もあり、「不可触民(アウトカースト、アンタッチャブル)」と呼ばれている。

 不可触民は、同じヒンドゥー教徒であってもカースト・ヒンドゥーの使う井戸は使用できず、ヒンドゥー寺院にも入れず、また沐浴場や学校
、公共施設なども利用する事はできないとされている。


 しかし現在では、1947年インド独立とともに憲法でカースト制度は禁止され、不可触民制の廃止も宣言された。

 現在では、以前あった乗り物やレストランといった施設への立入や、結婚や就職などでの差別もなくなっている。

 たとえば、IT業界などへの就職では全くの実力本位である。

 最近では逆に下位カーストへの大学への優先入学をめぐる逆差別が問題となっている。


 ただ結婚においては、バラモン階級とシュードラや不可触民階級との結婚は実際の所ない。

 またそれ以外でも、階級の異なる結婚はあるが、親の反対は押し切るパワーが必要となる。



13 ■ ムスリムのインド支配


 インド史における中世封建社会は何といっても異民族支配としてのイスラム諸政権の展開、つまりデリー・スルターン朝からムガル帝国と続く歴史過程に集約されている。

 8世紀の始めにウマイヤ朝のアラブ軍が侵入してから、次々とイスラム勢力が侵入し、略奪や仏像などの破壊を繰り返した。

 この後13世紀の始めに、アフガニスタンから侵入してきたトルコ系のムスリムが北インドを支配し、最初の政権をデリーに樹立した。

 このデリー・スルターン朝の開幕とともに、こうした破壊活動は鳴りをひそめた。


 イスラム教とヒンドゥー教とは、一神教と多神教との根本的な相違があり、教理でも儀礼でも著しく違っている。

 イスラム教では偶像が厳しく禁止されたため、モスクにも人物や動物さえも彫刻されてない。

 これに対して、ヒンドゥー教の寺院は神の偶像を祀るところで、寺院の壁面などにも多くの偶像が飾られている。

 このような相違は、冠婚葬祭や生活慣習でも多く見られる。

 たとえば、ヒンドゥーが牛を神聖な動物と考えて食べないのに対し、ムスリムは豚をけがれた動物として食べなかった。


 デリー・スルターン朝(1206〜1526)の時代に、土地の国家的な所有と王権の強化が図られた。

 戦争などで功績のあった者には王から土地を給与され、統治権と徴税権を与えられたが、しばしば国替えされ、さらにはその特権は世襲制でなく一代限りであった。

 そのため土地給与を受けたものが対象地に定着することはなく、イスラム政権がその影響力を村落の農民レベルまで浸透させることは難しかった。

 そのレベルでは非ムスリム、つまりヒンドゥーが影響力を持続させていた。

 例えば、ムスリムの支配を強く意識したバラモンや上位カーストの領主層などが、カースト制度の強化を図っていった。

 この頃結婚や職業の世襲などカーストによる差別がはげしくなった。


 また女性に対する種々の制約が強まった。

 寡婦が夫の遺体と一緒に生きながら火葬されるサティーと言う慣習は古くから行われていたが、この時代には夫や家族の宗教的罪を滅却する行為として賞賛された。

 同じく女性の顔を黒衣で覆い隠すバルダという慣習がムスリムから伝わり、ヒンドゥーの上層階級の間で広まったのも、この時代である。


14 ■ ポルトガルのインド進出


 1498年ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマの率いる4隻の船が、アフリカ最南端の喜望峰を回ってはるばるインドに渡来した。

 ここに「インド航路」が開設された。

 彼らの来訪時は北部のデリー・スルターン朝、及びデカンのバフマニー朝ともに衰退過程にあり、ポルトガル側と争う海軍力を持つ王権は存在しない時期であった。


 その後もポルトガルはあいついで船隊を派遣し、香料貿易で巨利を博した。

 この海上貿易を長い間独占していたムスリム諸国は、1509年エジプトのマムルーク朝を中心とする船隊を組んで、グジャラートのディウ沖でポルトガルと戦ったが敗れ、インド洋の制海権を失った。

 ポルトガルの勝因は大型船と火器の圧倒的な優位にあった。


 さらにポルトガルは、1510年に海上交易の要所ゴアを占領し、20世紀のインド独立後までその植民地的な地位を維持した。


 またゴアはイエズス会の活動拠点でもあり、日本に1549年に渡来した

 フランシスコ・ザビエルもゴアで活動していた。

 ポルトガル人は新大陸、つまりラテン・アメリカ原産のジャガイモやトマトなどをインドにもたらしが、インドで行われていたジャーティ制度をカースト制度と命名して、全世界にその所在を間違って知らせることになった。


 余談だが、16世紀の大航海時代ポルトガルが主にインド洋水域を基盤とするアジア地域を対象としていたのに対し、スペインは大西洋を舞台に活動していた。


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