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15 | ■ ムガル朝の成立 北インドでは、13世紀初めから、デリーを都とするイスラム王朝が続いていた(デリー・スルターン朝;1206〜1526)。 このデリー・スルターン朝最後のロディー朝(1451〜1526)の末期に、中央アジアのカブールを拠点にするティムールが北インドへの侵入を繰り返していた。 1526年ティムールの子孫のバーブルは、西北インドに侵入してパーニーパットの戦いに勝利し、パンジャブ地方からガンジス川中流域を征服し、ムガール帝国を作った。 バーブルは父方がティムール王家、母方がチンギス・ハーンの血を引くと言われています。 ムガール帝国の実質的な建設者は第3代のアクバルで、彼はアフガニスタンから南はデカンを除く大半を支配下に置いた。 そのアクバルの行政手腕により、ムガール帝国はその後150年も維持することができた。 アクバルはイスラム教とヒンドゥー教の共存政策をとった。 その後1628年にシャー・ジャハーンが王に就任し、アーグラーにタージ・マハルを建設中に、首都をアーグラーからデリーに戻した。 シャー・ジャハーンによる政治的な統一と「法と秩序」の確立によって、商業や物産の一大センターがインド各地に出現し、近隣地域のみならずヨーロッパとの交易も盛んになった。 |
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16 | ■ アクバル以後のムガル朝 アクバルの後の第4代皇帝は、アクバルの長男であるジャハンギール(在位1605〜27)です。 シャハンギールは文学を好み、保護・奨励したので、その宮廷では華やかなムガール文化の華が開きました。 しかし、彼はペルシャの美妃を寵愛し、王妃が政治を左右するようになり、政治は乱れました。 第5代皇帝のシャー・ジャハーン(在位1628〜58)はジャハンギールの子で、晩年の父と対立してデカンに退いていましたが、父が死ぬと翌年初めアーグラで皇位を継ぎました。 アーグラ城は彼の時代に改修・増築が行われ、宮殿としての機能が充実した城となりました。 シャー・ジャハーンの治世は、内政面ではムガール帝国時代で最も安定した時期であり、デカン高原へも領土を拡大しました。 このシャー・ジャハーンによる政治的な統一と「法と秩序」の確立によって、商業や物産の一大センターがインド各地に出現し、近隣地域のみならずヨーロッパとの交易も盛んになりました。 またシャー・ジャハーンも学者・文人を保護したので、ムガール文化はこのシャー・ジャハーンの時代に最盛期を迎えました。 アーグラにあるタージ・マハルは1631年に36歳で死去した最愛の妃ムムターズのために、17年間の歳月を費やして造らせたものです。 このタージ・マハルはインドを代表するイスラム建築で、白大理石の巨大なドームと美しい庭園で知られ、世界で最も美しい建築の一つとして有名です。 またこのタージ・マハルを建設中に、首都をアーグラーからデリーに戻しました。 シャージャハーンがムムターズに始めて会ったのは、まだ皇帝になる前で、年に一度のミーナ・バザールという今のフリーマーケットに似た装身具、衣装や調度品などを売る場所でした。 普段のアーグラ城内では男女が厳しく隔離されていますが、この日だけは、男女が身分を問わず、値切りあい、しゃべりあえる日でした。 ムムターズを失った皇帝は黒々とした髪が一夜にして真っ白になるほど悲嘆にくれたと言われています。 息子で第6代皇帝となったアウラングゼーブによって帝位を奪われ、アーグラ城に幽閉された7年間、シャージャハーンは、日々涙にむせびながら、ムムターズの眠るタージマハルを眺めて過ごしました。 シャージャハーンの後帝国の第6代皇帝となったのはアウラングゼーブ(在位1658〜1707)です。 アウラングゼーブは、シャージャハーンの晩年に勃発した4皇子の間の皇位継承戦争において、優れた軍事指揮と巧みな政治力でヒンドゥー、ムスリムを問わず多くの武将、交換を味方につけ、他の兄弟を圧倒して、1658年皇帝に即位しました。 アウラングゼーブは、長い治世の大半を外征に費やし、1689年ごろまでにデカン高原の南部を除いてほぼ全インドを統一し、ムガール帝国の領土は最大となりました。 インド史の中で、ほぼ全インドが統一されたのは、マウリヤ朝のアショカ王の時代とこのときだけである。 しかしムガール帝国は版図を拡大したことが財政を圧迫し、さらにアウラングゼーブは厳格なイスラム教スンニ派で、曽祖父のアクバルが廃止したヒンドゥー教徒に対するジズヤ(人頭税)を復活し、ヒンドゥー教寺院を破壊する等の弾圧を行ったため、経済政策の失敗と重なり、その領土のいたる所で民衆蜂起が相次ぐこととなりました。 そして1707年アウラングゼーブが没すると、諸侯の離反・独立が相次ぎ、さらに西部デカンにおけるマラーター族やパンジャーブにおけるシーク教徒の勢力の強大化、ペルシャ軍、アフガン軍の侵入も重なり、帝国の領土は急速に縮小していきました。 さらにこの頃インドの各港にはヨーロッパ各国の「黒船」がひしめき、特にイギリスはインド各地に取りつき、商館(インドからの輸出商品の一次加工や貯蔵の場所)のような拠点作りに着手していた。 そしてムガール最後のバハードゥル・シャー2世(在位1837〜58)が、インド大反乱(セポイの乱;1857〜59)の責任をとらされて、イギリス側から退位させられるにいたり、ムガール帝国はついに消滅しました。 |
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17 | ■ ムガール時代の経済 ムガル時代、とくに17世紀は、インドの商業と貿易がこれまでにない繁栄を遂げた時代である。 インドの人口は、1600年には約1億5千万人と推定されています。 その八割以上が農村に住んでいましたが、都市人口の比率は大きく上昇しました。なかでも、デリー、アーグラ、ラホールなどは、当時世界有数の大都市であり、その巨大な人口、繁栄する商業、豊富な商品は、訪れたヨーロッパ人を驚かせました。 これらの大都市は、ムガル帝国の政治の中心地であり、王侯、貴族、官吏、軍人の住む大消費地でした。 これらの都市には、デリーのチャンドニー・チョークのように、さまざまな地方の産物がならぶ繁華街が生まれました。 商品としては、穀物、野菜、果実のほか、植物油、塩、砂糖、綿織物が主要なものでした。 またこの時代に、ジャガイモやタバコなど多くの作物がポルトガル人によって導入され、これらの栽培が広まりました。 17世紀はインドからヨーロッパへ綿織物の輸出が著しく増大した時代です。綿織物は、モスリン、キャリコ、サラサといった名前で世界的に知られることになりましたが、この輸出がインド経済に与えた影響は大きなものがありました。 ヨーロッパ人はインドの産物(主として綿織物)の対価として、銀を大量にインドに持ち込みました。そして、この銀の流入がインドの貨幣経済を促進することになりました。 商人の間では、貨幣経済の発達によって金融業が栄えました。 特にパキスタンに近いグジャラート地方での発達はめざましく、フンディーとよばれる為替手形も発行されました。それは2ヶ月以内の指定日に指定のところで支払いを約束した為替手形であって、払込金から送金手数料を差し引いた金額が支払われました。これによって、遠距離の都市間の取引が容易になりました。 この時代、簿記も発達しました。 同時にこの時代、インドはかなり進んだ経済形態に進みましたが、資本主義経済を生むことができず、その前にイギリスによって征服されてしまいました。 これはインド人学者によれば、カーストの制約に加えて、インドでは高度な技術を持つ職人を多数低賃金で雇用することができ、そのことがかえって技術革新への投資や関心を弱め、資本主義経済を成立させえな かった理由としています。 |
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18 | ■ ヒンドゥー教とイスラム教の融合 インドではヒンドゥーとムスリムは長い年月同じ町や村に住んだため、衣服、食べ物、音楽といったさまざまな面で両者の融合が見られた。 特にヒンドゥー教のバクティとイスラム教のスーフィズムの間には類似点が多かったので、15世紀には両者を融合したような思想が生まれることになった。 [イスラム教のスーフィズム] スーフィズムは、イスラム教の中で9世紀に生まれた神秘主義である。 それは神との合一を求めるもので、非常に簡素な生活を営みながら、あらゆる束縛から離れて、神を霊的に体現しようとするものであった。 スーフィーの教義は、ヒンドゥーのバクティと類似点が多かった。 そのためスーフィーの布教により、ヒンドゥーの人々、とりわけ下層、中層のカーストの人々からの改宗者が多かった。 [ヒンドゥー教のバクティ運動] バクティは神に対する献身的な信仰を意味する。 最初6,7世紀にヴィシュヌ神やシヴァ神を最高神として、神の偉大さと恩寵をたたえ、神に絶対的な帰依をささげることにより、解脱に到達すると言う考えである。 この考え方を実践する運動が13世紀以後どの地方でも盛んになり、この時代の宗教詩人のカビールのように、世俗的な生活を送った人もいたが、多くは世間を捨てて、遊行の生活をした。 このようにムガル時代は、イスラム教とヒンドゥー教が融合/共存した時代であった。 |
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19 | ■ ムガール帝国の崩壊 ムガール帝国はアウラングゼーブの時代に最大となったが、デカン遠征の最中に死去した。その後、三人の皇子が王位継承をめぐって争い、これを契機に急速に崩壊に向かい、皇帝の統率力は失われた。 また財政も逼迫し、徴税請負人たちは農民からできるかぎり多くの税を搾取したので、農民たちの疲弊ははなはだしくなり、農業経済の危機をもたらした。 それに乗じて、領域内の諸地方ではムスリムの太守が次々に独立し、シーク教徒は一揆を繰り返すようになり、またヒンドゥー諸勢力も独自の領域を拡大していった。 その中でめざましい発展を遂げたのはマラータ王国であって、北インドの大半の地方を支配化に収めた。 この間、イギリスはマドラス、ボンベイ、カルカッタを根拠地として着々と実力を蓄え、フランスと争いながら、貿易、商業の利権を獲得し、18世紀中頃からインドに対する植民地侵略に着手した。 マラータ王国はムガール帝国に代わるほどの大勢力となったにもかかわらず、分権的な政治体制と帝国の理念の欠如のため、統一帝国を建設できなかった。 マラータ王国は、1761年バーニーパットで、南下してきたアフガン勢力を迎えて大敗した。 この敗戦はマラータ王国に打撃を与え、1775年から始まる三度のマラータ戦争によって、マラータ勢力は撃破され、イギリスの支配化に入ることとなった。 |
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