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トップインド関連情報>インドの歴史1(インダス文明〜マウリヤ朝)


● インドの歴史4(イギリスのインド進出〜印パの分離独立)



20 ■ イギリスのインド進出


 ヴァスコ・ダ・ガマがひらいたインド航路により、最初にインドに進出したのはポルトガルであった。

 ポルトガルは、16世紀を通して東インド貿易を独占したが、17世紀に入ると、オランダとイギリスが進出し始め、その後半には、両国はインド沿岸部の軍事力でも貿易の面でもポルトガルを圧倒するようになった。

 イギリスとオランダのインド貿易は、ポルトガルの国営企業と違い、国王の特許状によって貿易独占権を与えられた東インド会社が行った。

 イギリスの東インド会社は、1600年にロンドンに本拠を置いて発足した。

 それはインド、東南アジアを対象とする、イギリスにおける貿易独占会社の成立を意味した。


 東インド会社は、はじめは航海毎に資金を集めて、利潤を分配するという小資本であったが、次第に株式会社としての経営制度が整備され、継続的に船隊を行き来させる巨大企業になっていった。


 1709年イギリスは、ボンベイ、マドラスとベンガルの三地方を管区として設定し、インドからは香辛料、綿花や硝石(火薬の材料)などが輸出された。


 イギリスは最初はオランダよりも劣勢であったが、インドネシアの香料貿易から撤退して、インド貿易に力を注ぎ、17世紀末までにオランダをインドから駆逐した。


 次にイギリスは、フランス軍と組んだベンガル太守を撃破して、ベンガル地方を掌握し、インドの主要全地域を制覇した。

 これはプラッシーの戦いとよばれている。



21 ■ 資本主義の形成と展開


 一般に植民地経済とはモノ・カルチャー(単一作物栽培)経済を意味し、惨めな農業経済を指している。

 しかしインドは、他の植民地諸国の場合とは異なる資本主義の高度な発展を遂げた。


 19世紀半ば拝火教徒商人により綿工業が導入され、在来の商人も綿工業分野に転換した事実は、彼らが植民地的な条件のもとで、産業資本化へ転化したことを意味した。

 当然彼らはイギリス側から有形無形の妨害を受けるとともに、やがてインドの民族独立運動と不可分の関係を作り出すことになった。


 1870年代以降の帝国主義時代には、1869年のスエズ運河の開通が、イギリス帝国による「富の汲み上げ」を基軸とする帝国主義支配の展開にとって一大転機となった。

 まずインド綿工業の所在地が、ボンベイから次第にインド各地に広がって行ったことである。


 また1853年にボンベイとターナー間に鉄道が開設されて以来、鉄道網は拡大の一途をたどった。さらに20世紀初頭になると製鉄業が興った。



22 ■ インド大反乱


 1857年5月に北インドのイギリス軍の駐屯地メーラトで、インド人の兵士が差別の撤廃と待遇の改善を求めて反乱を起こした。

 いわゆるセポイの反乱である。

 この反乱はインド人傭兵だけでなく、都市住民や農民を巻き込んだと言う点から、インド大反乱と呼ばれるようになった。

 またこの反乱は、第一次独立戦争とも呼ばれている。


 この原因としては、アヘンの栽培とその対中輸出といった、利益のためには手段を選ばないといった植民地的な収奪や、インド民衆を人間として扱わない差別に対する怒りがあった。


 また反乱の直接的な契機は、イギリス軍の使用する銃の弾薬包に牛と豚の使用があった。

 ヒンドゥーとムスリムの両兵士はタブーとしてこれを拒否した。

 牛はヒンドゥーにとり聖なるものであり、豚はムスリムにとっては不浄なるものである。


 反乱は一時敗色の濃かったイギリス軍が1858年から反撃に転じ、1859年4月反乱軍の投降によって、大反乱はここに終結した。


 しかしこの反乱は、イギリスを一時的にも打撃を与え、後に独立戦争に参加する人々にも勇気を与えた。

 またこれを契機にイギリスの対インド政策にも転換がみられた。

 まず1858年東インド会社が廃止され、イギリス政府直属のインド政庁の直接支配下に置かれた。




23 ■ イギリス帝国主義下のインド


 大反乱後の1885年12月、後のネルー、ガンジーとつながるインド初の政党「インド国民会議派」の創立大会がボンベイで開かれた。 そこで採択された設立の目的はインドとイギリスの友好の促進にあった。


 この頃帝国主義時代を迎えたインド政庁は、矢継ぎ早に周辺地域に居住する民族の分断政策と、インド隣接地域への軍事的な侵略を強化した。


 まずイギリスによる英領インドの強制的な国境線の確定が、1872年に英領インドとイランとの間でなされた。

 その国境線は、その条約のイギリス人署名者の名前からゴールドシュミット・ラインと呼ばれた。


 また第2次アフガン戦争(1878〜80)では帝政ロシアの南下政策を阻止し、1893年には英領インドとアフガニスタンとの間で国境線が確定され、カイバル峠を往来して生活してきたパシュトゥーン人は英領インドと
アフガニスタンに分断された。

 イギリス側の目的は、英領インドと帝政ロシアとの直接接触を避ける「緩衝国」として、アフガニスタンの地位を固定化するところにあった。


 さらに第3次ビルマ戦争を通じて、イギリスによるビルマの併合が達成された。


 この時の農業政策の面では、小作権保護を打ち出していたが、イギリス側の地租収奪は一段と強化された。

 19世紀の後半になると、インド各地で農民の抵抗運動が切れ目なしに展開されることになった。



24 ■ ガンディー指導の抵抗運動


 第一次世界大戦では、政党としてインド国民会議派、全インド・ムスリム連盟、及び1915年アフリカから帰国したガンディーも同様の立場をとっていた。

 これは、インドの戦争勝利はインドの利益になると判断したことである。


 しかし第一次世界大戦後、インド内部で独立を要求する声が一挙に高まり、ガンディー指導の独立を目指す抵抗運動が始まった。

 非暴力抵抗運動である。

 その抵抗形態として、(1)断食、(2)ハルタール(商店閉鎖、ストライキ )、(3)非協力、(4)不服従が提起され、いずれも武器を使用せず、暴力を拒否して民衆の戦いを進めるところに特徴があった。


 運動がもたらした最大の意義は、地方の下部組織の確立を通じて会議派が幹部政党から大衆政党に転化し、さらに運動が一般大衆の政治参加を促すと共に労働組合運動や農民組合運動を発展させた。


 ガンディーが行った非暴力的抵抗の思想と行動は、世界の民衆の抵抗運動や市民運動の武器ともなった。

 近くはビルマ軍政の独裁政治と戦う民主化運動の旗手アウンサン・スーチーの行動へ深い影響を与えている。

 それはまた、南アフリカでの白人のアパルトヘイトに抗議して、進んで刑務所行きを試みたネルソン・マンデラの政治思想の支柱となった。

 それはさらに1960年代後半の北米における、黒人マーティン・ルーサー・キング師らのベトナム反戦運動の実践的な基盤ともなった。

 つまりガンディーは、20世紀のインドが世界に誇る思想的な前衛の一人であると言える。



25 ■ 第2次世界大戦とガンジー


 1930年代大恐慌の波がインドにも押し寄せ、とくに輸出用の商品作物の価格の下落は農民には大きな打撃であった。

 大恐慌こそ植民地経済の終りを告げるサインであると同時に、植民地国家を支えてきた農村の支柱が崩壊する時でもあった。


 この民族運動の影響が不可触民の運動に発展した。

 そのころ不可触民に対する差別は想像を絶するものがあった。

 動物の死体処理や皮革製品の製造、ゴミ処理などにかかわる彼らは、不可触民以外の人々からは不浄とされ、結婚やともに食事をすることはおろか、井戸も使わせてもらえず、彼らに触れたら汚れる、見ても汚れ
るとされてきた人々だったのである。

 この不可触民たちも差別を取りのぞき、自治と自由を求めはじめた。

 そしてこの運動はガンディーの「サティヤーグラハ」と銘打った非暴力的、穏健な形をとった、ヒンドゥー社会の差別を告発する運動から発展したものである。


 1932年ガンディーは不可触民だけを分離した分離選挙が撤回されなければ「死に至るまで」断食を続ける、として断食をはじめた。

 分離選挙を認めることは、不可触民制を固定し、永久的に存続させることになるとガンディーは言った。
ガンディーは当時、1932年1月に再開した不服従運動のために獄中にあったが、この宣言は国中を震撼させることとなった。

 ガンディーの断食に呼応して、各地で寺院の門が不可触民に開放された。

 バラモンが掃除人や皮職人とともに食事をした。

 ガンディーは出獄後、不可触民の開放に専念するとし、全国行脚の旅にでた。


 その後、ヨーロッパにおける戦争の気配が、次第にインドでも感じられるようになってきた。

 第二次世界大戦は、イギリスはインドに何の相談もなく参戦を決めたことにインド国民会議派(インド最大で最初の政党)は怒った。

 1940年夏、フランスが降伏し、イギリスは独伊に対して孤立した戦いを迫られていた。ロンドンはついにドイツの空襲にさらされた。

 しかし、そんなときでもイギリスは決してインドに対して独立を与えるとは言わなかった。

 そのころ総督から八月提案と言う新提案が提示されたが、それは、結局、

  1)インドの将来は自治領である。

  2)有力な諸勢力が否認なら、その政府に対しては権限を譲渡しない、

と表明したことである。

 ムスリム連盟が拒否するなら、会議派政権には独立を与えない、と読み替えることができる提案であった。

 これは戦争に協力しているパキスタンの分離独立を要求しているムスリムへの褒賞だと誰もが感じた。


 これに対するダンディーの答えが個人的不服従運動である。

 ガンディーはインド人の不満をくみ上げたい、といつも思っている。

 八月提案の2)というかたちでイギリスによって提出された、決して解けない結び目を何とかして解こうと思っている。

 しかし、彼が選んだ争点は、八月提案への真正面からの抗議ではなかった。

 そこがガンディーの国際政治家としての面目であった。



26 ■ 印パの分離独立


 1945年5月ヨーロッパで世界大戦が終結するや、植民地インドでは農民の抵抗運動や海軍ストなど騒然たる状況に見舞われた。

 イギリス側は合法的に権力を移譲する対象を、早急に決定することが求められた。

 そして分離独立国家のパキスタンを要求する全インド・ムスリム連盟、強い中央政府の樹立を目指した会議派、それに一貫した方針を持たないイギリスの三者の間で交渉が進められた。


 1942年2月英労働党のアトリー首相が下院で独立を認める演説を行い、同時に英領インドの新総督に任命されたマウントバトンが、各層の人々に会い、最終的には権力は会議派と連盟のニ政府に移譲されるとの結論に達した。

 1947年6月3日のマウントバトン計画がそれで、それはインド独立法の基礎となった。


 1947年8月15日インドは独立を達成した。

 ネルーはデリーの国会で演説し、「インドが新しい時代へ1歩踏み出すこと」を強調した。


 パキスタンはインドより一日早く独立し、インドを挟む形で東西のムスリム多数地域からなる飛び地国家となった。

 なお両者とも英連邦に自治領としてとどまった。



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